鼻から投与した薬は、嗅球を経由して脳に届くわけではない。
経鼻投与後、薬物が脳へ移行する経路には主に2種類あることが知られています。第一は「嗅神経経路」です。鼻腔上部に位置する嗅上皮の細胞間隙を通じ、嗅球を経由して脳に直接到達するルートです。篩板(しばん)と呼ばれる頭蓋骨の細孔部分に神経束が通っており、この付近では鼻腔と脳脊髄液(CSF)が非常に近接しています。
第二の経路は「三叉神経経路」です。呼吸上皮から三叉神経に薬物が取り込まれ、三叉神経節→橋→三叉神経毛帯→視床→海馬・視床下部という順で神経細胞を乗り継ぎながら移行します。これは経細胞的軸索輸送(transaxonal pathway)とも呼ばれます。
重要なのは、この2つの経路の解剖学的な現実です。ヒトの鼻粘膜における嗅上皮の割合はわずか2〜3%に過ぎません。一方、げっ歯類(ラット・マウス)では約50%を占めます。つまり、動物実験で得られた嗅球経由の知見をそのままヒトに適用するのは危険ということです。
この事実は大きな示唆を持ちます。ヒトへの経鼻脳移行を本当に実用化するなら、嗅上皮ではなく鼻粘膜の約98%を占める呼吸上皮、すなわち三叉神経経路を主眼に置いた製剤設計が必要になります。三叉神経が基本です。
東京理科大学の山下教授らの研究グループは、この三叉神経経路に注目し、神経ペプチドGLP-2に膜透過促進配列(CPP)とエンドソーム脱出促進配列(PAS)を付加した誘導体「PAS-CPP-GLP-2」を開発しました。マウスへの経鼻投与からわずか3分後に橋(三叉神経主知覚核)で薬物が観察され、20分後には海馬・視床下部での薬物移行と抗うつ様作用の発現が確認されたと報告されています。これは意外ですね。
また2002年に报告されたヒト臨床試験では、健常人へのメラノコルチン、バソプレシン、インスリンの経鼻投与後30分以内にCSF中での薬物検出が確認されており、ヒトでも鼻腔から脳への直接移行経路が存在することが裏付けられています。
参考:東京理科大学「神経科学の既成概念をくつがえす新たな中枢デリバリー技術の作用機序を解明」(三叉神経を介した経鼻脳移行メカニズムを世界初の実験的証拠とともに報告した研究成果)
東京理科大学 研究成果「経鼻投与された神経ペプチド誘導体が神経細胞を乗り継ぎ脳へ移行する」
経鼻ルートは確かに血液脳関門(BBB)を迂回できますが、それだけで脳移行が保証されるわけではありません。むしろ複数の生理的障壁が存在しており、これを理解することが臨床応用・製剤設計の前提となります。
最初の障壁は「粘液線毛クリアランス(Mucociliary Clearance: MCC)」です。鼻粘膜は線毛の規則的な往復運動により粘液を毎分5〜6mmの速度で咽頭側へ移動させています。投与した薬物は長くとも15〜20分程度で喉側に押し流されてしまいます。実質的な吸収ウィンドウが非常に限られているということです。
次の障壁は「酵素分解」です。鼻粘膜にはプロテアーゼやペプチダーゼが存在しており、ペプチド・タンパク質薬物を分解します。これが高分子バイオ医薬の経鼻脳移行が難しい主要因の一つです。
三つ目の障壁は「タイトジャンクション」です。鼻粘膜上皮細胞間は細胞間結合(タイトジャンクション)によって密着しており、水溶性・高分子化合物は細胞間隙を通過しにくい構造になっています。
さらに見落とされがちな課題として、薬物の物性要件があります。経鼻製剤で50%以上のバイオアベイラビリティを達成するためには、分子量約600 Da以下、油水分配係数(LogP)が0以上程度が目安とされています。分子量1 kDaの薬物でもヒト鼻腔内投与後の吸収率は約10%程度というデータも報告されており、高分子薬物への適用には工夫が欠かせません。
これらを踏まえると、「経鼻で投与すれば脳に届く」という単純な理解は正確ではありません。むしろ「いかにMCCに打ち勝ち、酵素分解を防ぎ、タイトジャンクションを越えて神経経路に薬物を届けるか」という製剤設計の問いが核心です。この視点が条件です。
参考:日本薬理学雑誌「経鼻薬物送達の現状と将来」(武田真莉子、神戸学院大学薬学部。鼻粘膜の構造・機能と最新研究動向を詳解した総説論文)
生理的障壁を乗り越えるために、現代の製剤科学はさまざまなアプローチを開発しています。医療従事者として製剤の選択・評価を行う上で、これらの戦略を知っておくことは重要です。
まず「粘膜付着性高分子(ムコアドヒージョン素材)」の活用です。キトサン(エビ・カニ由来の多糖類)やカルボマーなどは鼻粘膜に密着して薬剤の滞留時間を延長し、同時にタイトジャンクションを一時的に緩めて吸収を促します。粘液線毛クリアランスに対抗する基本戦略がこれです。
次に注目されるのが「in situゲル化技術」です。室温では低粘度の液体として噴霧できながら、鼻腔内の体温やpH・イオン環境に応答してゲル化する製剤です。薬物をその場に固定できるため滞留時間が大幅に延長されます。
「粉末製剤(ドライパウダー)」も有望な剤形です。溶媒を含まないため薬物安定性が高く、防腐剤も不要です。製剤が鼻粘膜上に留まりやすく、グルカゴン乾燥粉末製剤(米国商品名:バクスミー)として2019年に実用化された実績があります。重症低血糖発作への対応が筋注なしで行えるようになったのは、この剤形技術の賜物です。これは使えそうです。
「細胞膜透過ペプチド(CPP: Cell-Penetrating Peptides)」の活用も注目されています。Tat(HIV由来)、Penetratin、オリゴアルギニンなどの数十種類以上のCPPが知られており、薬物と架橋または物理混合することで鼻粘膜透過性を劇的に改善できます。神戸学院大学の研究グループは、penetratinを物理混合するだけでインスリンのバイオアベイラビリティを経鼻で100%にまで上昇させることを動物実験で実証しました。
「ナノ粒子・リポソームキャリア」の応用も進んでいます。薬物をナノ粒子やリポソームに封入することで酵素分解を防ぎ、嗅神経・三叉神経への選択的取り込みを促進できます。また、Tat修飾高分子ミセルを経鼻投与すると嗅球から三叉神経・CSFを経て脳内全体に核酸を送達できることも報告されています。
製剤選択は疾患と薬物の物性に合わせて行うのが原則です。一度に投与できる容量は片側鼻腔あたり0.1〜0.2 mL程度であり、用量の制約も念頭に置く必要があります。
参考:神戸薬科大学「生理活性ペプチドの鼻腔内投与による脳への送達と疾病治療への応用」(嗅神経・三叉神経経路を活用したペプチド脳内送達技術の基礎研究成果)
研究段階にとどまらず、経鼻投与による脳移行の臨床応用はすでに現実のものとなっています。医療従事者が知っておくべき具体的な事例をまとめます。
🔵 アルツハイマー病へのインスリン経鼻投与
アルツハイマー型認知症の初期・軽度認知障害(MCI)患者を対象とした臨床試験において、インスリン経鼻投与が記憶機能と認知機能を改善する可能性があることが、米国Wake Forest Baptist Medical CenterのCraft博士らのグループにより示されています。また2025年の研究では、PETイメージングによって経鼻インスリン投与後40分間で海馬・嗅覚皮質・視床・扁桃体など11領域に脳内分布が確認されており、インスリンが鼻腔から直接脳に届いている根拠が可視化されました。脳内インスリンシグナリングの維持が記憶・学習能力の保持に関わることを考えると、この経路は非常に合理的です。
🔵 オキシトシン経鼻投与とアルツハイマー病
東京理科大学の研究グループは、アルツハイマー型認知症モデルマウスにオキシトシンを経鼻投与することで、空間的作業記憶障害が対照マウスと同程度まで回復することを確認しました。さらに「誘導体化オキシトシン」では経鼻後の脳内移行効率が向上し、行動障害の改善が見られています。自閉スペクトラム症(ASD)患者の社会性行動改善に向けた臨床試験も進行中です。
🔵 エスケタミン点鼻剤(難治性うつ病)
ケタミンのエナンチオマー「エスケタミン(スプラバート®)」の経鼻スプレーは2019年に米国で治療抵抗性うつ病への承認を取得しました。従来の経口抗うつ薬より速やかに効果が発現し、診察室内でスプレー投与後、短時間で症状軽減が期待できます。この薬はNMDA受容体を標的とし、脳内に直接作用することで抗うつ効果を発揮します。
🔵 ミダゾラム経鼻投与(てんかん発作)
ミダゾラム点鼻剤は2019年に米国で承認されており、てんかん発作時に鼻へのスプレーだけで抗けいれん薬を迅速に投与できます。静脈路確保が困難な状況での救急処置において特に有用で、医療の現場でも実績が積み上げられています。即効性が条件です。
これらの事例に共通するのは、「BBBを越えられない薬物の脳内送達」あるいは「速やかな中枢作用が必要な状況」における経鼻ルートの有効性です。
参考:Carenet Academia「経鼻インスリン投与の脳内分布をPETで初めて可視化」(2025年)
Carenet Academia「経鼻インスリン投与後40分間の脳内分布をPETで初めて可視化した研究報告」(2025年)
経鼻投与を「投与経路の一選択肢」として捉えるとき、最も見落とされがちな要素があります。それは「患者の鼻粘膜状態が脳移行効率に直接影響する」という点です。
アレルギー性鼻炎・上気道炎・鼻中隔弯曲症・慢性副鼻腔炎などの鼻腔疾患を持つ患者では、粘膜の腫脹・過剰な粘液産生・線毛機能異常が生じています。この状態では粘液線毛クリアランスが亢進し、投与した薬物が正常よりも早く咽頭側へ押し流されてしまいます。結果として、脳移行に利用できる鼻腔内滞留時間がさらに短縮されることになります。
厳しいところですね。
具体的に言えば、正常な鼻粘膜では粘液は毎分5〜6mmで移動しますが、炎症状態ではこの速度が変動します。また、鼻腔内の薬液が一側方向に偏流することもあり、嗅部領域(嗅上皮が存在する鼻腔上部)へのリーチが損なわれる可能性もあります。
さらに、鼻腔の解剖学的形状の個人差も無視できません。鼻中隔が著しく弯曲している患者、あるいは鼻甲介が肥大している患者では、噴霧した薬液が目的の粘膜領域に到達しないことがあります。こうした個人差が経鼻製剤のバイオアベイラビリティの個体間ばらつきの一因となっています。
臨床現場で経鼻製剤を使用・指導する際には、患者の鼻腔状態をあらかじめ確認することが推奨されます。鼻粘膜の炎症が強い時期は経鼻製剤の効果が減弱する可能性があること、また投与デバイス(スプレーの角度・量・嗅部ターゲティング専用デバイスの有無)の選択が脳移行効率に大きく影響することを、患者への説明・服薬指導に盛り込むことが重要です。
| 鼻腔状態 | 経鼻投与への影響 | 対応のポイント |
|---|---|---|
| 正常 | 粘液移動 約5〜6mm/分、吸収ウィンドウ約15〜20分 | 標準投与で問題なし |
| アレルギー性鼻炎・上気道炎 | 粘液量増加、クリアランス亢進、粘膜腫脹による吸収面積の減少 | 症状コントロール後の投与を推奨。粘膜収縮薬の前投与を検討 |
| 鼻中隔弯曲・鼻甲介肥大 | 薬液の偏流、嗅部への到達不良 | ターゲティング機能付きデバイスの使用、投与角度の指導 |
| 慢性副鼻腔炎 | 線毛機能異常、粘液組成変化、分泌過多 | 治療による改善後に再評価 |
結論は「鼻腔状態が経鼻脳移行の質を決める」です。
この観点は、経鼻投与を研究論文や動物実験の段階から実際の患者ケアに橋渡しする際に、特に意識しておくべき視点です。鼻腔の状態を評価してから経鼻投与を選択する、あるいは評価できない状況では代替投与経路も念頭に置くという姿勢が、安全で効果的な治療に直結します。
参考:新日本科学 経鼻投与技術企業「Nose-to-Brain応用領域とSMART技術の概要」(嗅部ターゲティング投与デバイスによるMRI可視化データ含む)
新日本科学 経鼻投与技術「Nose-to-Brain応用領域:嗅部への薬物送達とMRIによる脳移行確認データ」